2019-11-27 第200回国会 衆議院 文部科学委員会 第10号
これは、二〇〇九年の二月に佐藤知也さんという方が発行した「平壌で過ごした十二年の日々」という本に記載されているんですけれども、この方は日本人の人民学校で代用教員を務めていたということなんですね。終戦を平壌で迎えて、十二年間向こうで住み続けるんですが、そのときに朝鮮人学校の先生をしていた。
これは、二〇〇九年の二月に佐藤知也さんという方が発行した「平壌で過ごした十二年の日々」という本に記載されているんですけれども、この方は日本人の人民学校で代用教員を務めていたということなんですね。終戦を平壌で迎えて、十二年間向こうで住み続けるんですが、そのときに朝鮮人学校の先生をしていた。
文科省の具体策の中で、教職員定数の改善ということがあるんですけれども、これだけ人不足の中で、定数の改善だけでは、要は実員の改善でなければ、特に小学校等女性教員が多い職場にあっては、産休、育休における代用教員も必要になってくる。そういう意味では、実数、実員が極めて大事だと思いますけれども、その辺、この教職員定数という言葉は、実際、実員というふうに読みかえさせてもらってもいいんでしょうか。
そのときに、代用教員といいますか、補充をしようにもそのなり手がいない。あと五年、十年すると、その教師不足というのがもう危機的な状況になっていってしまう。これが、今言った教師の負担が大きいということと、教師不足になりかけているというのが現場の最大の課題だというふうに思っています。
私は、自分の子供時代を振り返ると、非正規というか非常勤の先生というのは、産休の代用教員ぐらいのイメージしかなかったものですから、実態として、そういう人たちが学校の教育現場にたくさん、かなりの率でいるということを正直知らなかったわけで、働く人の三人に一人が非正規という時代とはいえ、学校の教育現場で非正規という人がそんなにいるんだという認識は正直ありませんでした。
驚くべきことは教育で、先生なんか、私も地方へ行くたびに思うことは、小学校だって代用教員が担任やっているんですから。これは本当に嘆かわしいことで、先生方、是非こういう面は御指導いただいて変えていただきたいと思うんですが、これがなったんです。 それで、これはどういうことかといいますと、日本は元々、地方の方はお金を貯金するんです。でも、地方では使い切れません。
直後でありましたので、亡き前尾先生が後継者を定めずと決めておられた中で、前尾先生の関係者から、是非、前尾先生が京都の府政を転換してくれた野中君に期待をするという話をしておられたからあなたが出ろという話になりまして、当時もう五十七歳でありまして、今更国政に参画するような立場でない私でありましたが、田中先生、さらに、青年団のときから一緒に親しくしていただき、また家内が島根県でございますから、島根県で代用教員
ともすれば、いろいろな議論の中で、教員のためには大学院までとか、いろいろな議論が先行しておりますけれども、私は、そういう問題ではない、昔の師範学校の先生や、あるいは代用教員や代用教員出身の先生でも立派な先生はたくさんいました。
恐らく、今のお考えだと、新たに導入ですから、拘束時間がより一層長くなる可能性もあって、そのときの対応をどうするのか、代用教員の問題も含めていろいろな問題が出てくると思いますので、この点については、既存のそれぞれの市町村が行っている研修への影響というものをぜひお考えいただきたいなということを申し上げておきたいと思います。
それを、理由は、明治五年に学制発布以来、市町村でいかに教員を確保することが困難だったのか、代用教員を雇えるかどうかが必死な状況。しかも、教員にいい人、処遇がどこまでできるのか。そういった点で国が何とかしてくれというほうはいたる声を受けて、国庫負担制度ができました。
これら全体が、私が昭和二十六年、中学校の代用教員をやっていたころはこういう規制全然なかったんです、教育基本法あったんだけれども。伸びやかにやっていたのが、どういうものか、異常なくらいいわゆる信教の自由、政教分離ということで強調されるようになって、これは我が国の信教の自由の名の下に、習俗や我が民族の文化、伝統が害されているのでないかと。
あるいは、昔ありました代用教員という、もう今では石川啄木でしか聞かないような言葉ですけれども、代用教員という制度がありましたが。それでは、村で採用されて、四十円で採用するけれども実質五円は村に寄附してほしい、そういった実態もあった。これはやっぱりやっちゃ駄目だよと、村にあるいは町にその意思はなくても、実際として払えない状況が出てくるんだからという話を先輩がしてくれました。
当時のいわゆる国民学校ですね、これは代用教員が圧倒的に多かった。いわゆる旧制の中等学校に進学する率が日本の国全体では三割を切っておったわけです。大学に至っては一割、一割五分ぐらいだったですかね。そういう時代ですから、教員がおらぬのですよね。そのために教員養成に全力を挙げた。特に、六三三制の確立のために文部省は本当に大蔵省と取っ組み合いのけんかして、大変な勢いで六三三制の実現をやったと。
要するに、市町村長、市町村、小さな村の村長さんなんかがこの教員の人件費が確保できないので教員が雇えない、雇っても代用教員しか雇えないと。これはどうなるんだといって大変な思い、必死の思いでやって、国に働き掛けてできたという経緯がある。ですから、人件費というのは、これは教育条件の最低のものだ。それを保障するのに国が二分の一負担するということになれば基準ができますから、そこで初めてできる。
あとは代用教員ですよ。それで、訓導というのは、熟練した大工さんが日当一円五十銭です。そのときに四十五円もらったんです。今、熟練した大工さんは三万円は少なくてもあるんでございましょう。九十万円の、初任給ですよ、比較すればの話ですよ、実際は別にしてね。それぐらい先生というものを重んじたんです。先生になるのは大変だった。
だから大学を出ても代用教員で小学校へ行ったりね。あるいは旧制中学校なんかなかなか教員になんかなれなかった。そういう立派な免許状をもらったもんですから、私は高校の教員になっちゃったけれども。
ほとんどいわゆる代用教員ですよ、あるいは仮免許。そして、大学を卒業しても代用教員にしかなれなかった。東京大学を卒業しても昔は訓導にはなれないんですよ。だから、これは訓導というそれぐらい大変な時代の教員資格です。 それからずっと変わっていって、そして大学に教師になる道も開放されてできたのが戦後の昭和二十年代ですね、免許法という法律をつくってやっていた。
それから四年生が終わるまでの三学期の間もずっと、代用教員授業といいますか、学校の校長先生あるいは教頭先生、それから全然知らない非常勤講師というんでしょうか、そういう先生方が入れかわり立ちかわり、そのクラスの授業を受け持ちました。
もちろん小学校の先生といったら、師範学校へ行った先生は、ここの東京の永田町小学校は半分ぐらいおったらしいけれども、ほかは師範を出た先生はほとんど一人か二人しかいないんですよ、あとはみんな代用教員。師範の先生の月給は四十五円。当時、大工の日当は一円五十銭。そうして、代用教員は五円ですよ。そういう中でずっと日本の教育が行われてきておったんです、戦前。
ですから、私は、全日本選手権で優勝して、オリンピック代表に決まった翌日に学校に辞表を持っていきまして、売り言葉に買い言葉で、これは、そんなことを言うのならやめて行ってやるよというぐらいの気持ちであったのでありますが、そのときには校長先生が間に入って学園の理事長を説き伏せていただいて、代用教員を立てていただいて、私は三カ月間海外遠征や国内の七回にわたる合宿を経てオリンピックに出場したということであります
したがいまして、実際に使える制度を導入するためには、やはり休んでいるときの穴をどうやって埋めるか、昔の代用教員システム、そういうことをきっちり考えること。それからもう一つは、導入を進めるためには、育児、介護もそうだと思いますが、社会的な事業なんだということで、さっきの休職中の扱いとか休業制度、育児休業などの法的な扱いをもう少しきっちり厚くする。